退職を伝えたあとに、こう言われることがある。
「1級を取らせた費用がある。5年以内に辞めるなら返してもらう」
就業規則にその条項があることも、入社時に念書を書かされていることもある。多くの人はここで、返さなければいけないのだろうかと考え込む。
結論から書くと、返還条項は無効になることもあれば、有効とされることもある。そして有効・無効を分ける要素は、行政の文書に列挙されている。この記事ではそれを確認したうえで、請求されたときに実際に効く一手——金額の内訳を出させること——まで書く。
なお、この記事は法律相談ではない。個別の事案の結論は事実関係で変わる。ここで扱うのは、条文・行政資料・公表裁判例から誰にでも確認できる判断の枠組みである。
まず条文。労働基準法16条
(賠償予定の禁止) 第十六条 使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。
「5年以内に辞めたら◯◯円」という定めは、この条文に触れる可能性がある。辞めるという行為に金銭的な負担を紐づけることで、退職の自由を事実上制限するからである。
ただし、これで話が終わるわけではない。会社が「これは労働契約とは別の貸付だ」と構成してくる場合があるからだ。費用を会社が貸し、一定期間勤務すれば返済を免除するという形にすれば、労働契約の不履行に対する違約金ではなく金銭消費貸借契約だ、という理屈になる。
裁判所はこの形を、常に否定はしていない。だから「16条があるから返さなくていい」とは言い切れない。
行政が示している判断枠組みは5つの要素
中央労働委員会が公表している個別労働紛争あっせん事例の解説が、裁判例の判断枠組みを明示している。
今日までの裁判例は、労基法16条に違反するかどうかを、①研修・留学費用に関する労働契約と区別した金銭消費貸借の有無、②研修・留学参加の任意性・自発性、③研修・留学の業務性の程度、④返還免除基準の合理性、⑤返済額・方式の合理性等を総合的に勘案して、判断している
貸与契約等の対象である研修等が『職業訓練の一環』か『自己が負担すべき研修』かが判断基準とされ、貸与契約等の目的の『業務性』の認定が決め手とされる傾向にある
出典は中央労働委員会「個別労働紛争あっせん事例[5] 労働者の資格取得費用の負担及び損害賠償責任の制限」(https://www.mhlw.go.jp/churoi/assen/dl/jirei05.pdf )である。
決め手は業務性とされている。会社の業務のために取らせたのか、本人が自分のために取ったのか。ここが軸になる。
「資格は個人のものだから返さなくていい」は、裁判例では逆に働く
多くの人が最初に思いつく反論がある。「資格は自分に付くもので、辞めても使える。だから会社のものではない」。
ここが本記事で一番伝えたいところで、この理屈は返還義務を否定する方向ではなく、肯定する方向に使われている。
タクシーの第二種免許について争われたコンドル馬込交通事件(東京地判 平成20年6月4日・労働判例973号67頁)で、裁判所は免許取得の業務性を認めながら、こう述べている。中央労働委員会の資料が判決文を直接引用しているものである。
同免許は個人に付され、会社を退職しても利用できるという個人的利益があることからすると、免許の取得費用は本来的には免許取得希望者個人が負担すべきものであり
つまり「持ち運べる資格だ」という事実は、あなたの利益になるのだから、あなたが払うべきものだという論理に転化しうる。施工管理技士はまさに持ち運べる資格である。この反論を正面から出すと、相手に材料を渡すことになりかねない。
公表裁判例は、業務命令性の強さで分かれている
中央労働委員会の資料が列挙している裁判例のうち、結論と分岐が確認できるものを並べる。
| 事件 | 裁判所・年月日 | 結論 | 分岐の決め手 |
|---|---|---|---|
| 長谷工コーポレーション事件 | 東京地判 平9・5・26 | 有効 | 応募・留学先選択が労働者の自由意思。業務命令ではないとして業務性を否定 |
| 富士重工事件 | 東京地判 平10・3・17 | 無効 | 会社の業務遂行に資する海外研修で、関連企業での実務にも従事=業務性 |
| 新日本証券事件 | 東京地判 平10・9・25 | 無効 | 業務命令で派遣。返還合意が「研修終了後の勤務の確保を目的とし期間内の退職者に対する制裁の実質」 |
| 野村證券事件 | 東京地判 平14・4・16 | 有効(按分) | 消費貸借と認定。5年免除特約で在籍期間分を按分 |
| 和幸会事件 | 大阪地判 平14・11・1 | 無効 | 看護学生修学資金。「将来の退職の自由を制限する目的であり、就労を強制する経済的足止め策」 |
| コンドル馬込交通事件 | 東京地判 平20・6・4 | 有効 | 業務に不可欠だが免許は個人的利益。20万円未満・2年 |
| サロン・ド・リリー事件 | 浦和地判 昭61・5・30 | 無効 | 指導内容が一般的な新入社員教育と変わらない |
読み取れる傾向はこうなる。
無効に寄る事情
- きっかけ業務命令で取らされた
- 契約の形就業規則に書いてあるだけ
- 免除の設計5年以内は全額返還
- 金額実費を超える
有効に寄る事情
- きっかけ自分で応募した
- 契約の形労働契約と別の消費貸借契約がある
- 免除の設計期間に応じて按分・減額
- 金額実費の範囲・少額
「業務命令で取らされた」「就業規則に書いてあるだけ」「5年縛りで全額返還」——この3点が揃うほど、無効の側に寄る。
行政も同じことを言っている。福島県労働委員会事務局の個別労働関係紛争Q&Aは、「業務命令を受けて業務に必要な資格を取得し、その取得費用は会社が負担」「資格取得後5年以内に自己都合により退職する場合は、研修費用の全額を返還しなければならない」という規定について、「労働基準法に違反している可能性があると考えられます」と回答している(https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/65015a/kobetuqa14-3.html )。
業務命令で受検し、会社が費用を負担し、就業規則に返還条項が置かれている——この形に当てはまるなら、福島県労働委員会Q&Aが扱った事例に近い。
なぜ建設会社はここまで囲い込むのか
背景を知っておくと、相手の動機が読める。
建設業では、有資格者の在籍が許可業者として事業を続けるための重要な条件になっている。営業所ごとに営業所技術者を専任で置けなければ、許可基準を満たせない(建設業法7条2号)。工事現場には主任技術者・監理技術者を置かなければならない(同26条)。
なお、建設業法3条1項は許可を義務づけつつ、ただし書で「政令で定める軽微な建設工事のみを請け負うことを営業とする者は、この限りでない」と例外を置いている。「許可が無ければ一切営業できない」わけではない。
一方で資格は会社のものにならない。監理技術者資格者証は個人の申請により個人の氏名で交付され、有効期間は5年である(同27条の18)。
さらに、国土交通省の運用では、在籍出向者や派遣社員、一つの工事の期間のみの短期雇用は「直接的かつ恒常的な雇用関係」を欠くとして技術者配置が認められない。派遣や出向、工事期間だけの短期雇用では代替できず、工事を請け負った企業との直接的かつ恒常的な雇用関係が必要になる。
会社
- 資格の名義持てない
- 有資格者が居ないと許可基準・受注に影響
- 確保の手段直接的かつ恒常的な雇用が要る
あなた
- 資格の名義個人の氏名で交付される
- 有資格者が居ないと影響しない
- 確保の手段転職できる
返還条項は、この非対称を金銭で埋めようとする設計である。あなたを縛る動機は強い。だからこそ、条項の有効性は個別に検討される。
実際に効く一手は、金額の内訳を出させること
ここからは実務の話をする。
施工管理技士の取得にかかる公的な費用は、思われているより小さい。すべて試験実施機関・交付機関が公表している金額である。ただし、資格取得そのものに必ずかかる費用と、専任の監理技術者等として配置される場合に必要になる費用は別なので、分けて見る必要がある。
資格取得(受検)に必要な費用
| 項目 | 金額 | 出所 |
|---|---|---|
| 1級土木施工管理技術検定 | 第一次12,000円+第二次12,000円(非課税) | 全国建設研修センター |
| 1級建築施工管理技術検定 | 第一次12,300円+第二次12,300円(非課税) | 建設業振興基金 |
専任の監理技術者等として必要になる場合の追加費用
| 項目 | 金額 | 出所 |
|---|---|---|
| 監理技術者資格者証 交付手数料 | 7,600円(非課税) | 建設業技術者センター |
| 監理技術者講習 受講料 | 9,500円(税込・インターネット申込) | 建設業振興基金 |
資格者証と講習は、1級に合格した人が全員、資格取得の時点で必ず負担するものではない。専任の監理技術者等として配置される場面で必要になる費用である。
そのうえで金額を並べると、受検料だけなら1級で24,000円前後。資格者証と講習まで含めた場合で、合計およそ4.1万円になる。
会社が数十万円を請求してきたなら、公的手数料だけでは説明のつかない部分がある。その残りが何で構成されているのか——受験対策講座の費用なのか、教材費なのか、交通費なのか、受講中の賃金相当額なのか——は、請求する側にしか分からない。
だから最初にやることは決まっている。内訳を出させることだ。
内訳を求めること自体に、二つの意味がある。ひとつは、実費を超える請求かどうかが分かること。もうひとつは、相手がどう応じるかが分かることだ。
請求の根拠や内訳を示せるのか、説明が曖昧なままなのか。その応じ方の違いが、そのまま交渉材料になる。
私の場合は、請求ではなく規程より多い退職金だった
正直に書く。私は資格取得費用を請求された経験がない。施工管理の現場も経験していない。この記事の中心にある局面を、当事者として通ってはいない。
私が通ったのは、逆向きの場面だった。
退職を伝えたあと、金銭に関する条件で揉めたことは一度も無かった。むしろ会社は退職金を保障する保険に入っていて、退職金規程に書かれた額よりかなり多い金額を支給してくれた。11月末の退職でボーナス支給の直前だったため賞与は出なかったが、それに伴う返還を求められることもなかった。
それでも私は、経理部長から金額の明示を受けたときに確認をしている。勤続年数に対して金額が多かったからだ。
返ってきた答えはこうだった。「それは会社の好意だから受け取っておくように」。
私はそのまま受け取った。内訳の説明を得たわけではない。
この経験から言えることは限られている。請求を押し返した経験ではないからだ。ただ一点だけ重なる。提示された金額に納得がいかなければ、有利な提示であっても根拠を聞く——その動作は同じである。そして、聞いても納得のいく内訳が返ってこないことがある、というのも私が実際に見たことだ。
請求される側なら、なおさら聞く理由がある。
まとめ
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「5年以内に辞めたら全額返還」は労働基準法16条に触れうるが、会社が消費貸借の形をとった場合には有効とされた例もある
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有効・無効は①消費貸借の有無 ②任意性 ③業務性 ④免除基準の合理性 ⑤返済額・方式の合理性の5要素で総合判断される(中央労働委員会)。決め手は業務性
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「資格は個人のものだから返さなくていい」は逆効果になりうる。個人的利益があることを理由に、本人負担が本来だと述べた裁判例がある(コンドル馬込交通事件)
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「業務命令で取らされた」「就業規則に書いてあるだけ」「5年縛りで全額返還」が揃うほど無効に寄る。行政も違反の可能性を明言している(福島県労働委員会Q&A)
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公的費用は、1級の受検料が24,000円前後。資格者証と講習まで含めた場合で合計およそ4.1万円(資格者証・講習は専任の監理技術者等として必要になる場合の費用)。数十万円の請求なら公的手数料だけでは説明がつかない。まず内訳を出させること
返還条項が置かれている場合でも、問題になるのはその中身である。そして中身は、聞かなければ分からない。