転職先で、私は退職願を出した。入社して2年ほど経ったころだ。所長は受け取らなかった。私の在籍は、そのまま続いた。
もし受理されていたら、次の当てはなかった。転職活動は再開していたが、内定はない。それでも受理されたら辞めていたと思う。そういう状態で、私はあの紙を渡した。
このサイトは「成功した転職の話」を書く場所として作っていない。この記事は失敗の話で、何を失いかけたか、そして同じ場面に立つ人が何を先に済ませておくべきかを書く。
先に法律の話をしておく。「退職願は撤回できる」というのは、会社が承諾するまでの話である。そして、承諾するかどうかを決めるのは出した側ではない。私が救われたのは、この仕組みに守られたからではなかった。
転職した人の半数近くは「ここに居続ける」と言い切れていない
転職した先で辞めたくなるのは、珍しいことではない。
厚生労働省の「令和2年転職者実態調査」(個人調査)は、転職者に今後の転職希望を聞いている。「今の職場で今後も働きたい」は52.7%だった。残りは「機会があれば転職したい」が21.0%、「わからない」が24.9%である。
出典:厚生労働省「令和2年転職者実態調査の概況」個人調査 表23
「わからない」を後悔と読み替えるつもりはない。ただ、転職を経験した人のうち、今の職場に居続けると言い切れているのは半数と少しだ、ということは言える。
なお、この調査は2020年10月1日時点のもので、コロナ禍の数字である。同調査は5年周期で、2026年9月時点で公表されている最新は令和2年調査だ。
退職願と退職届は、法律上の意味が違う
転職先で辞めたくなったとき、机の上に置く紙は2種類ある。退職願と退職届だ。多くの人は表題の違いを気にしないが、法律上の扱いは分かれる。
厚生労働省の労働条件に関する総合情報サイト「確かめよう労働条件」は、次のように整理している。
労働者が会社に対し退職したい旨の申し込みを行い、会社がこれを承諾すれば合意退職が成立します。一般的な手続としては、労働者からの退職の申し込みは「退職願」の提出という形式で行われることが多いと思われます。
合意退職の申し込みの場合には、使用者が承諾するまでの間は、その申し込みを撤回することができます。したがって、合意退職の申し込みのために退職願を提出した場合には会社の承諾があるまではそれを撤回することが可能と考えます。
一方、任意退職の申し入れと認められる意思表示がされた場合には、労働者の意思表示が会社に到達し、会社が承諾すればその時点で効果が発生しますが、承諾しなければ2週間後に効力が発生します。会社が退職を承諾すれば、労働者が一方的に撤回することはできなくなります。
整理するとこうなる。
退職願
- 法律上の性質合意退職の申込み
- 会社が承諾しないとき何も起きない
- 承諾される前の撤回できる
- 承諾された後の撤回できない
退職届
- 法律上の性質任意退職(辞職)の申入れ
- 会社が承諾しないとき2週間で終了する
- 承諾される前の撤回会社の同意が要る
- 承諾された後の撤回できない
出典:厚生労働省「確かめよう労働条件」の整理による
施工管理の退職引き止めの記事で、退職に会社の承諾は要らない、と書いた。民法第627条第1項は、期間の定めのない雇用はいつでも解約を申し入れることができ、2週間で終了すると定めている。あの記事はそれを辞める側の武器として引いた。
ただし、あれは退職届の話である。退職願は逆で、会社が承諾しなければ何も起きない。辞めたい人にとって退職願は弱い紙で、退職届は強い紙だ。厚労省の同じページは、確実に辞めたいなら「合意退職の申し込みと解釈されないような表現で、退職の意思を明確に記載した『退職届』を提出」するのが無難だと書いている。
一点だけ注意しておく。同じページには、裁判例では「単純に文書の表題だけではなく、その文書の記載内容や当事者の言動等により」判断されている、とも書かれている。表題を「退職願」にすれば必ず合意退職の申込みになる、とまでは言えない。
「撤回できる」は、受理されるまでの話
退職願は撤回できる。ここまでは正しい。問題はその先で、撤回できるのは会社が承諾するまでの間だけだ。
では承諾はいつ成立するのか。厚生労働省の事業として設けられている愛知県雇用労働相談センターの解説によれば、最高裁の判例では、退職願を受理した人に退職を承認する決定権がある場合、受理した時点で会社の承諾があったものとして、その後の撤回を認めなかった事案がある。一方で、承諾の権限を持つ人に届く前に撤回した事案では、撤回が認められている。
つまり、撤回できるかどうかは、誰が受け取ったか、その人に決定権があったか、その人が受理したかで決まる。この3つはどれも、出した側が選べない。
もう一つ、直感に反する条文を挙げておく。民法第97条第1項は、意思表示はその通知が相手方に到達した時から効力を生じる、と定める。上司が紙を突き返したからといって、意思表示が無かったことになるわけではない。同条第2項は、相手方が正当な理由なく到達を妨げたときは通常到達すべきであった時に到達したものとみなす、とまで書いている。
退職願を差し出した瞬間から、その紙の行方は相手の手にある。受理して承諾すれば、その日に退職が確定する。退職日そのものは、退職願に書いた日付か、会社との合意で決まる。受理しなければ、何も起きない。どちらになるかは、渡す前には分からない。
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私は退職願を出した。所長は受け取らなかった
きっかけは、長時間に及ぶ叱責だった。一つの出来事というより、否定される場面が重なった結果だと思う。辞めたいという気持ちは、社外では口にしていた。社内の誰にも言っていない。
表題は「退職願」にした。会議室で、所属長と2人になるタイミングで渡した。
所長はまず「冷静に判断しなさい」と言った。その上で、「今自分がしたいことがあるなら、その準備をちゃんとし終わってからでもいいんじゃないか」と言って、その場で紙を返した。
私は取り下げなかった。残ると決めたわけでもない。ただ、辞める準備が整うまでは辞めない、ということだけが決まった。
承諾されたら撤回できないことは知っていた。もし所長がその場で「分かりました」と受理していたら、私は辞めていた。次の当てはなかった。転職活動は再開していたが、内定は一つもない。貯えはあったが、長くしのげる額ではなかった。
あのとき受理されていたらどうなっていたか。実際に詰んでいたかは分からない。ただ、生活を大きく変えざるを得なかった可能性はある。
救ったのは法律ではなく、相手の都合だった
なぜ所長は受け取らなかったのか。
私の見立てでは、会社都合である。所長が自分で立ち上げた営業所は人数がぎりぎりで、私が抜ければ回らなかった。説得することが、自分の首をつなぐことでもあったのだと思う。
これを恨む気持ちはない。むしろ書いておきたいのは、動機が会社都合でも、言葉は正しかったということだ。「準備をし終えてからでもいい」というのは、私に最も欠けていたものを正確に突いていた。
このサイトでは繰り返し、相手の応じ方に情報がある、と書いてきた。試用期間の記事では見極めは内定承諾の前に終わらせるべきだと書いたし、引き止めの記事では引き止めの中身に会社の性格が出ると書いた。
退職願への応じ方も同じである。受理して承諾する会社なら、その日に私の退職は確定していた。突き返す会社だったから、辞めずに済んだ。しかしそれは、私が選んだのではない。営業所の人数という、私にはどうにもできない事情が、たまたま私の側に働いた。
法律は「承諾されるまでは撤回できる」と言う。しかし承諾するかどうかは相手が決める。私の生活が途切れなかったのは、法律のおかげではなく、あの営業所に人が足りなかったからだ。
出したことは失敗ではなかった。準備の無さが失敗だった
では、退職願を出したことが失敗だったのか。
そうは思っていない。出さずにいたら無理だったと思う。出した後、所長の叱責は目に見えて減った。すぐに変わった。そして私は、病人のように扱われるようになった。それが良かったのかどうかは、ここでは評価しない。ただ、状況は動いた。
失敗の本体は別のところにある。受理されたら辞める覚悟だけがあって、受理された後の生活の計算がなかった。同じ紙を、次の当てができてから、あるいは貯えが整ってから出していれば、返されても受理されても困らなかった。私は最悪の順番でカードを切った。
もう一つ、社内の誰にも言わずに紙を出したことも、順番の問題だった。所長が事態を知ったのは、退職願を差し出したその瞬間である。それより前に知る機会を、私は与えていなかった。
同じ場面に立つ人へ
退職願を書こうとしている人に、一つだけ先に済ませてほしいことがある。
会社が退職の申込みを承諾し、合意した退職日を迎えても、生活が続く状態を先に作ること。承諾されれば退職日は確定し、その日が来れば無職になる。撤回できるという知識を当てにしないほうがいい。撤回できるのは相手が承諾するまでで、承諾するかどうかは相手が決める。次の当てがない、貯えもないという状態で出す退職願は、相手の都合に自分の生活を預けるのと同じだ。
辞めてから探す場合の失業給付については給付制限の記事に書いた。制度が答えるのは「いつ金が入るか」であって「焦らずに選べるか」ではない。あの記事で書いたことは、退職願を出す前の準備にもそのまま当てはまる。
辞めたい気持ちを伝えるなら、それが退職の申込みではなく、状況を変えるための相談であることを先に明示したほうがいい。口頭なら相談になる、というわけではない。退職の意思表示は口頭でも成立しうる。労働局の相談事例には、口頭で退職を申し出た労働者について、会社がその有効性を認めた例が載っている。「辞めたい」と「辞めます」を分けるのは紙か言葉かではなく、どちらの意思表示として出すかだ。私は紙で、後者を出した。
ただし、これは私の事情での話である。若くて身軽なら、承諾されて辞めてもやり直しは効く。その場合は、出す前に整えるべきものの量が違う。
まとめ
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転職者のうち「今の職場で今後も働きたい」は52.7%。転職した先で辞めたくなるのは珍しいことではない(厚生労働省 令和2年転職者実態調査)
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退職願は合意退職の申込み。会社が承諾しなければ何も起きず、承諾するまでは撤回できる。退職届は任意退職の申入れで、承諾がなくても2週間で終了する(厚生労働省「確かめよう労働条件」)
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撤回できるのは承諾されるまで。受理した人に決定権があれば、受理の時点で承諾になりうる。誰が受け取り、受理するかは出した側が選べない
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民法第97条により、突き返されても意思表示が無かったことにはならない
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私は退職願を出し、所長は受け取らなかった。取り下げてもいない。救ったのは法律ではなく、営業所の人数という相手の都合だった
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出したこと自体は失敗ではなかった。失敗は、受理された後の生活の計算をせずに出したこと
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出す前に、会社が申込みを承諾して退職日を迎えても生活が続く状態を作る。辞めたい気持ちを伝えるときは、退職の申込みではなく相談であることを先に明示する(口頭でも退職の意思表示は成立しうる)